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日本のトランペットの歴史

楽隊前説

 現在でもそうなのだが、「ガクタイ」という言い方がある。
これはクラシックでもジャズバンドでも共通した言い方で、ようするに団体のことであって、ピンではない という意味である。
これはある時には誇りを持って「オレはガクタイや」と言い、ある時は自らを卑下して「オレはガクタイや」というのである。
この言葉の始まりはやはり明治初めに軍楽隊が編成された時期で、当人たちは当初から「軍楽隊」とは呼ばず、「ガクタイ」と呼んでいた。
このガクタイの始まりは明治2年、薩摩藩の武士達によって編成されて伝習を始めた薩摩藩軍楽傳習生である。

ここで後から頻繁に出てくる「・・・式」という言い方について少し説明する。
陸、海とも誇りを持ってこの「・・・式」という言い方をしているが、私(野間)の感じるには、これは単に何人から習ったか ということと、楽器の名称が何語か ということぐらいしか差が見受けられない。
このうち「オランダ式」というのは鼓笛隊のことであり、横笛と太鼓という編成で、ちょうど京都の時代祭の先頭に更新してくる勤王隊のようなものだと言えばわかりやすいであろう。この「オランダ式」というにはオランダの軍楽隊が鼓笛隊であったということではなく、オランダ人の教えた形式が鼓笛であった ということであろう。(後述)
イギリス人のフェントンが教えたのがイギリス式、フランス人のダグロンが教えたのがフランス式、ドイツ人のエッケルトが教えたのがドイツ式、ということである。
簡単な見分け方は日本語の「小」と言う意味の言葉を「くらいね」と呼ぶのがドイツ式、「ぷちっと」と呼ぶのがフランス式、イギリス式はどういう訳か「小」と和訳された。
「小」は「こ」とも「しょう」ともどちらでも呼び分ける。Petitはあくまで「ぷちっと」と呼び、決して「ぷち」とは呼ばない。
いろいろな文献を見るが、外国語はことごとくカタカナで書いてある。そのため原語が判らない場合がある。「ぷちっとばーす」「こんとるばーすみべもーる」「こんせるぱとあーる」などはまだ想像がつくが、「ぺんちるほーん」とはどのような楽器であろうか?(どうもふれんちほーんのことらしい)
 この薩摩藩の武士達によって編成された薩摩藩軍楽傳習生は一応明治政府の公認を受けていたが、予算はほとんど貰えず、なんと初めは楽器がなかった。
教官のフェントン(英)の給料は政府から出ていた。その金額は90ドルであったが、この軍楽隊の伝習が始まってからは200ドルになった。この差の110ドルは島津久光の機密費(ポケットマネー)から支払われた。
おまけに政府はいっこうに楽器を買ってくれないので、楽器の注文はこれまた島津久光の機密費から支払われ、発注元は島津久光個人であった。
ディマティン社製という文献もあるが、これは誤りで、ディマティン社という貿易会社からベッソン社製の楽器を注文した というのが正解である。
ベッソン社製の管打楽器一揃いの値段は1500ドル、当時の物価は1ドル=1円 かけそば一杯5厘である。
現在の政治家の機密費の使い方とはまるで違うね。

明治2年の軍楽隊傳習生名簿


さて、この軍楽隊創設以前に目を向けてみよう。

 日本人が最初に見聞した洋式楽器による軍楽隊は長崎、出島から長崎奉行所までを往復したオランダ商館長の公式行事において演奏行進をしたオランダ軍軍楽隊であろう。
商館長が着任した場合、まず長崎奉行に対する着任の挨拶は商館長の重要な公式行事であり、この行事にはオランダ海軍軍楽隊が先導し、正装で行進した。
オランダ軍楽隊の絵
上記の絵は年代は不明であるがその時の様子を表している。楽器の持ち方などかなり適当に描いてあるが、小太鼓を先頭にホルンらしきもの、クラリネットらしきものが見受けられることからオランダ軍楽隊はれっきとした吹奏楽隊であり、決して鼓笛隊ではない。
 時代は下って嘉永 年にペリーが浦賀に来航した。このときペリーの艦隊には軍楽隊が乗り組んでおり、接見所に至る間演奏行進した。これは徳川幕府が公式に洋式楽器による軍楽隊を見聞きした最初と言うことになっている。 明治5年に兵制の改革があり、兵部省が廃止されて陸軍省と海軍省とに分けられた。これより軍楽隊は二つ別々の歩みを始めるのである。


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