Trumpetについて

Last updated 2003.7.20


トランペットの歴史


 そもそもの名前の由来は、ものの本によると「strombos」という貝殻の一種を意味するギリシャ語から来ているらしい
が、定かではない。そこから「trompe」に変化していったらしい。
要するに円筒の部分が多い楽器をトランペットという。
これに対して円錐の部分が多い楽器は現在のホルン、コルネットなどに代表される「corno」、つまり角とか牙 等を語源とする楽器である。

このトランペットとコルネットは現在では ほとんど同じ様なものとして扱われているが、両者は起源は異なっており、つい100年程前までははっきりと区別されていた。
バルブが発明されてから両者の関係は急速に近づいていった。

 金管楽器全体の歴史は非常に古く、おそらく太古からあったと思われる。
打楽器に次に歴史のある楽器ではないだろうか。

 昔々、あるところに筒状のもの(多分動物の骨)が落ちてましたとさ。
それを拾った古代人はそっと口に当てて息を吹き込んでみました。
すると あらびっくり!自分の唇がふるえて「ブー」と音が出たではありませんか!
これが金管楽器の始まりです。でもこの古代人は現在でいう中近東、ヨーロッパに住む西洋人の祖先だったのです。
我々の先祖達は少し骨格が西洋人とは異なっていました。
東洋人の祖先は 筒状のものを拾って口に当てても音は出ませんでした。
しかし斜めに息を吹きかけると「ピー」と音が出ました。これが笛(横笛)の始まりです。



 というように基本的な骨格の違いから西洋人は金管楽器にむいているのです。東洋人は笛に向いているということになります。
西洋では金管楽器は高度に発達しました。
しかし東洋ではほとんど発達しませんでした。
]楽器もわずかに山伏がホラ貝を吹く程度で、しかもその演奏技術は基音と第2倍音位で、メロディを吹くというよりは「ボー」っとうなっているようなもので、信号用にしか使えませんでした。

この演奏技術は紀元前2000年位のエジプトのレベルと同じで、西洋はその後大きくレベルアップしましたが、日本では明治になるまでそのレベルを保っていたのです。保っていたというより進化しなかったのです。これはひとえに骨格の違いによるハンデがあるためと思われます。




さて話を歴史に戻して西洋ではその後材質が変わり、青銅製のものや銀製、真鍮のものに変化した。
音色は材質によって微妙に変わるが、それはわずかであり 重要なのは管の形状である。
そしてもっと重要なのは管の長さが調節出来るということである。
動物の骨では同じ長さのものを見つけるのは困難である。金属製になることによって同じ長さ、または異なった長さの楽器が意図的に製造することが可能になった。
これによって何本かの楽器を組み合わせてハーモニーが可能になったのである。


 すべての楽器は倍音というものを利用して音を変化させている。
金管楽器は特に顕著に現れている。


下記はよく見る倍音列である。

この倍音を巧みに操ることによって昔のトランペット奏者は様々な音楽の演奏を可能にしてきた。
その技術は16〜17世紀頃最盛期を迎え、現在では考えられない高度な技術を持ったトランペット奏者が数多くいた。

 封建社会の中でトランペット奏者達はギルド(マイスター制度)という組織を作り、その技術を門外不出にし、親方から弟子へ伝えられた。
クラリーノ奏法と呼ばれるものである。
今風にいうとリップスラー、ダブル、トリプルタンギング使いまくり といったところか。
バルブなしで倍音を巧みに操り 補助的に穴をあけ、第16〜18倍音まで使用可能であった。
当時の貴族社会ではトランペット奏者を何人抱えているかということが権威の象徴にもなった。
ビクトリア女王は16人、ルイ14世は24人、というように。
もちろん特別扱いされ、給料もほかのバイオリン奏者などの何倍も取っていた。当時は速い高度な技術を要する曲はすべてトランペットが受け持ち、バイオリンよりも声楽よりも高い技術を誇っていた。

 楽器は基本的には大きな進化は見られないが、倍音で出ない音を出す工夫がいろいろと試みられた。
その一つがスライドトランペットである。
これは「Tromba da terarsi」という表記の物がおそらくそうであろうと思われる。
バッハの有名なカンタータ147番のコラールのトランペットパートなどにterarsiという表記がある。
 この高度な技術は封建社会の中でギルドによって受け継がれ、守られてきた。
ところがフランス革命以後、封建社会が崩壊し、民主主義の世の中になると、ギルドは消滅し、それと同時にクラリーノ奏法の後継者はいなくなった。
トランペットの演奏技術は急速に低下し、古典派の時代では12倍音までしか使われなくなり、もはやメロディを演奏することはほぼ不可能になった。
バッハの頃とベートーベンのころの楽器は基本的には同じ物である。しかしその扱いの違いは歴然である。
 このころキートランペットというものが発明された。
ウィーンの宮廷トランペット奏者ヴァイディンガー(Anton Weidinger)が現在のサックスのようなキーを付けた楽器をあつらえた。
これにより半音階が出来るようになり、この楽器のためにハイドンは協奏曲を作曲した。
しかし、穴を開けるということはベルに近い部分の空気柱を犠牲にすることになり、音質に難があり発展には限界があった。
結局ハイドンとフンメルが2曲の協奏曲を残すに留まり、その後あまり広まらなかった。
 メンデルスゾーンがバッハの作品をロマン派の世の中に復活させたが、そのときのトランペットパートは当時の人には神秘的に写り、バッハのトランペットパートはクラリネットで演奏されたりするのが当たり前であった。
モーッァルトがヘンデルの「メサイヤ」を編曲したものがある。これはトランペットパートが簡単になって ほとんど活躍の場がなくなってしまっている。
当時の技術はここまで低下してしまっていた。
 19世紀に画期的なことが起こった。バルブの発明である。これは穴を開けずに管の長さを調節出来るということで音色の低下は一切起こらなくなった。
これを取り入れたのがポストホルンであった。
 物の本によると、
1825年ごろ、パリの楽器制作者アラリ(Jean Hilaiye Aste Halary)がシュテルツェル考案のピストン弁2個を付け、29年にはペリネ(Etienne-Francios Perinet)が独自の方式による3弁のモデルを作った。
このコルネットは軽快な運動性と柔軟な表情において当時にトランペットに優っており、とりわけダンスや軽い音楽のバンドで喜ばれた。
ロッシーニの「ウィリアム テル」にもいち早く採用されている。
音色改善の意図から管の形の手直しが行われ、外観はしだいに太った現代のトランペットのようになった。
フランスの管弦楽は、コルネットとトランペットを並行で用いたが、コルネットが主、トランペットが従の関係であった。
イギリス、アメリカではいっそうはなはだしく、本来のトランペットパートまでコルネットが演奏した。
 このときトランペットは頑固に昔の長い形を守り、バルブを付けることを拒否し続けた。
トランペットが名誉を回復するのは19世紀末に進出してきた短管のバルブ付きの楽器のおかげであるが、そのモデルとなったのは皮肉にもコルネットであった。
さらにバッハの時代のトランペットパートを演奏出来るようになるには、さらに短いピッコロトランペットの開発を待たなければならなかった。

 ピッコロトランペットは物の本によると、
 ドイツのトランペット奏者コスレック(Julius Kosleck)がハイデルベルグにあった古い直管トランペットを一部改造してD管に仕立て、1871年ベルリンで試演した。
彼は更に5度高い直管2バルブのA管をあつらえて、アイゼナハ(1884)とロンドン(1885)でロ短調ミサの演奏に用いて好評を得た。
この楽器の音色は素晴らしかったというが時代の大勢は現代の短管式を目指しており、それ以上の発展はなかった。
 これに対してフランスでは、新型の短管を試みる。
テスト(Teste)はD-C管を作って1874年パリでメサイア上演に用い、後にはG管を作って1885年にC.P.E.バッハのマニフィカトに用いた。
1890年にマイヨンが「ソプラニーノ」として売り出したD管はその後バロック用としてのほか、新作の管弦楽曲にも採用され、(ボレロ、春の祭典)高音楽器の標準型となる。
 なお、ブランデンブルグ協奏曲第2番の演奏用に向くとして、パリのミルロー(Millereau)が1897年にF管を発表し、さらに1909年にはブリュッセルでB管が登場した。
 これが現在のピッコロトランペットである。

浜松市楽器博物館所蔵のトランペット


続く

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