野間裕史

京都市立堀川高校音楽科東京芸術大学別科大阪芸術大学演奏学科卒。
トランペットを八木茂夫(元京響)井上正彦(名フィル)北村源三(元N響)池田俊(元大フィル)の各氏に師事。
現在関西を中心にフリーのTrumpet Playerとしてソロ、アンサンブル、オーケストラ、ジャズバンド、など多方面で活動を続ける。またトランペットの指導、吹奏楽の指導、指揮、様々な編成による編曲も手がけている。


詳しく書けば



1961年(昭和36年)京都に生まれる

幼稚園の頃オルガンを習ってたらしい
京都市立京極小学校入学。
小学校3~4年バイオリンを習う。があまりものにならず。

小学校6年の時、来年行くであろう中学がブラバンが有名と聞き、トランペットを吹く決意をする。
京都市立上京中学校入学、すぐにブラバンの門を叩き、入部する。
が、トランペット希望者が3人いて、全体のバランスを考えて1人がユーフォニウムに行かなければならないことになった。僕は死んでもいやだった!
そこでいろいろ考えた結果、楽器を買えばそのパートに残れるだろうと考え、親に頼んで楽器を買って貰った。
それを次の日、学校に持っていき先輩、先生に見せびらかした。それを見ていたもう一人が一週間後、楽器を買ってきた。
この作戦は見事的中し、残った一人がユーフォに行くことになった。

こうして僕のラッパ人生が始まった訳である。

 一番最初に買った楽器は、ヤマハのインペリアル。これを買うまでは学校の楽器を使っていた。
上中のブラバンは非常に伝統のあるクラブで、いままで数々の日本を代表する演奏家を生んでいる。
 京都という所は伝統ある学校が多く、多方面で優秀な人材が先輩にいて、僕のような凡人には荷が重いのである。
そういえば僕の出た小学校も「湯川秀樹」ちゅう人が出た といって随分手本にしなさいと言われたもんだ。


 事の始まりは終戦後、旧制から新制の中学校になって、「上京中学校」なるものが出来たとき、山下清猛という先生がいて、その先生が進駐軍の払い下げの楽器をトラック一台分、当時の金で2万円位で買ってきて、ブラバンが誕生した。
この山下清猛先生は、現在打楽器奏者として世界中で活躍している 「ツトムヤマシタ」のお父さんである。
僕は直接お会いしたことはないが、晩年、洛南高校に転職され、現在の洛南高校の基礎を築かれた。その洛南の演奏会で指揮をしておられるのを何回か拝見した事がある。

 発足当時のメンバーも今から見るとそうそうたる顔ぶれで、よく見せてもらう写真には体育館の前で、(僕が中1の時もまだあった!)山下清猛が指揮をし、八木茂夫(元京響)北村源三(元N響)がラッパを吹き、山田桂三(元N響)がホルンを吹き、塚本紘一郎と中川良平がサックスを吹き、兼田敏がアルトホルンを吹いていた。
山下先生の教え方は「出来るまで練習する」という、とても昔風の単純な方法だったらしいが、塾もなければ、テレビもろくにない時代、その練習は深夜まで及び、想い出話には「先生に屋台のうどんを食わしてもらった」という話が多い。
 その甲斐あって素晴らしいプレーヤーが育ったのだから、その練習方法は間違ってなかったのかもしれない。
源三先生の話によると、当時毎日のようにトラックに乗って出張演奏に出かけているのを見て、「こりゃあいい!勉強せんですむ!これしかない!」と思い、入部したそうだ。
ところが、鬼のような先輩達にしごかれ、たまらんかったそうな。
中川良平はすでに才能を発揮していたし、兼田敏は楽器はあまり上手くなかった(興味がなかった)が、すでに中学の時に作曲や編曲のまねごとをし、「わしの書いた曲をあいつらに吹かせて、実際に音になるのが面白かった」そうだ。
 昔の話は沢山聞いているので、またそのうち詳しく書きます。


 で、僕が中1でクラブに入った時、最初に手にしたのはその時代の楽器だった。
ホルトンのシルバーのコルネットである。ベルには「U.S.Army」の刻印がしっかりと刻まれていた。
そのほかにも、ベッソンのユーフォ、アレキのチューバ、キングのトロンボーン、金属製のクラリネットなど昔の舶来の楽器が山ほどあって、当時(僕が中1の時)まだ現役で使われていた。
でも、中1の僕には、その価値など分かるはずもなく、「緑青のべったり付いた汚い楽器」とは早くおさらばしたかったのである。
 
また話はそれるが、一番初めにてにした楽器で大体世代がわかる。
大昔は知らないが、大体 昭和10年代の生まれの人は「TANABE」というメーカーの楽器を手にした。
おそらく日本で最初の金管楽器製造メーカーである。田辺管楽器製作所という。
源三先生たちの世代である。
その次の昭和20年代の世代は「TO-KAN」というメーカーだった。
東京管楽器製作所である。
このトーカンが次の世代のニッカンの前身らしい。
昭和30年代は「NIKKAN」の世代である。
そして昭和40年代以降は「YAMAHA」の世代になるのである。


僕はニッカンとヤマハの丁度間の時代だったように思う。
ヤマハはまだ「カスタム」がなく、「プロモデル」までだった。
上中にはヤマハのプロモデルのC管のトランペットが一台あって、代々パートリーダーがそれを吹く習わしになっていた。(例にもれず僕も中3の時、そのC管を吹いていたが、もう一つピンと来てなかった。)

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